関数電卓コラム

08/08/29 関数電卓と物理定数

一般にはそれほど使われてはいないが,物理に携わる者の一人として「物理定数」機能は気になる.今回はこのユーザーインターフェースについて語ろう.物理定数とは,たとえば真空中の光速度c=299,792,458[m/s]とか,プランク定数h=6.6260693×10^(-34)[Js]など,物理の公式を計算するときに出てくる定数のことだ.まあ,私も業界に棲む者のはしくれとして,代表的なものは有効数字3桁くらいで暗記している.しかし,ど忘れということもあるし,時々は4桁以上の精度が必要な計算もある.こんなとき,電卓が物理定数をおぼえていてくれると大変便利.しかし,哀しいかな,電卓の貧弱なユーザーインターフェースのおかげでこの機能は存在すら知られていない.少なくとも私のまわりの学生はそうだ.

物理定数機能は,関数電卓でも比較的高級なものにしか装備されていない.また,「標準電卓」タイプに物理定数機能を持つ機種はない.これは,標準電卓は表示が7セグメントLEDのみなので,物理定数を入力,確認する上手い仕組みが無いためだろう.

関数電卓の[物理定数]機能の有無

メーカー     備考
CASIO fx-991s VPAM
  fx-991W SVPAM
  fx-350TL × SVPAM
  fx-991MS SVPAM
  fx-912ES × Natural Display
  fx-991ES Natural Display 店頭で確認
Canon F-720i  
  F-788dx  
  F-715S ×  
SHARP EL-509E ×  
  EL-509F EL-520E 両機のソフトウェアは共通 
HP 35s  

こうしてみると,CASIOは代々「991」シリーズのみに物理定数機能をつけていることが分かる.SHARPは今年発売の入門機,EL-509Fが旧EL-520Eと共通のソフトを使っているので,現行全機に装備されていると考えて良い.こうして並べてみると,物理定数機能を持つ関数電卓は半々,というところだ.

定数の呼び出し方も,機種によって様々だ.代表的なものを見ていこう.まずは最古のfx-991sから.VPAMの電卓は,標準電卓とインターフェースはほとんど変わらない.従って,定数の呼び方もユニーク.呼び出し方は,[数字] [CONST]だ.たとえば[4] [CONST]キーの順で押すと,真空の光速度が出る.呼び出せる定数は32個.しかし,どの数字がどの物理定数かをおぼえておかなくてはいけないので,マニュアル無しで使うのは難しい.後で述べるが,数字で選ぶタイプの電卓は,蓋裏面に必ず早見表があるのだがこの機種には装備されていない.

実は,いまでは見かけなくなったこの入力方式には大きなメリットが一つある.重要な9個の定数は2キーで呼び出せるのだ.「標準電卓」らしい,省略の美学である.

つづいてSHARP EL-509F.[CONST]キーを押すと,メニューが現れる.「01から52の数字をキーインして下さい」という意味だ.定数一覧は,裏蓋に挟まれた小さなカードで参照できる.[0][1]と入力すると,真空の光速度が,下の段に数値で現れる.このへんはSHARP方式の置数ルールに則った仕様.しかし,その後がいけない.つづいて適当な演算子を入力すると,下のウィンドウの表示がそのまま上段に表示される.

これでは,いくつかの物理定数を使った計算が長くなりすぎて見通しが悪くなる.私はSHARP方式の物理定数機能を余り評価しない.

続いて,CASIOのSVPAM機.現行機種で物理定数機能を持つfx-991ESは持っていないが,店頭で確認したところfx-991MSと同じであることを確認.ただし,[CONST]キーが裏に回って[SHIFT][CONST]となり,前機種より使いづらくなった.

話をfx-991MSに戻そう.[CONST]キーを押すと,二桁の数字入力を促す.一覧表から定数を選ぶのはSHARPと同じ.一覧表は裏蓋にがっちり貼り付いており,耐久性を考えるとこちらの方が好ましい.真空の光速度は28だ.入力すると,ごらんの通り.物理定数はこのように文字で表すのが正しい.しかし,光速度は小文字の「c」がいいなあ.どうせ二桁入力が必須なので余り関係ないかも知れないが,重要な物理定数が後ろの方にあるのがイマイチ.

続いてはCanonの現行機種.Canonも,入門機には物理定数機能が付いていないが,上級機F-788dxは定価\3,000-と,他社の入門機と大して変わらない.数式が電源を切っても記憶されることもあり,私のお薦め機種のひとつだ.まず[c-value]キーを押す.すると,「1-79を入力せよ」と出る.ここで数字を直接入力しても良いし,カーソルキーで選択しても良い.初心者にはやさしいインターフェース.しかし,ベテランにはイライラする.数字キーでのショートカットもできるが,必ず最後に[=]キーを押さなくてはならない点が大きく減点である.メニュー方式で真空の光速度にたどりつくには

[c-value][↓][↓][↓][↓][↓][↓][↓][↓][→][→][→][=]

の13ストロークが必要.これでは萎えてしまう.「ディスプレイに表示されるからいいでしょ」ということなのか,便利な一覧表は付属せず.面白いのは,最近のCanon,CASIOの共通性の例に漏れず,定数の並びも同じであることだ.

HP 35sもほぼ同様のユーザーインターフェース.重要な物理定数が最初の方に現れるのは,さすがHPだ.この辺のCanonとの違いは特に強調したい.Canonのばあい,[↓]キーを押していって一番左に現れる定数(つまりすぐ確定できる定数)は

mp mr μn re

だ.なんだかわかるかい?私も分からない.一方HPは

c(真空の光速度)
eV(素電荷)
k(ボルツマン定数)
R(気体定数)

と,重要なものばかり.断言しても良いが,Canonの電卓を開発した人は実験系の物理学を学んで大学を卒業した人ではない.

最後に,ユーザーインターフェースに関しては多くのダメ出しを食らっているCanon F-720iの入力方式について語りたい.物理定数機能に関して言えば,これが一つの理想型だと私は思う.

(クリックで拡大)

F-720iの物理定数は直接キーボードに刻印されている.呼び出しは[ALPHA][定数]だ.当然,割り付けられている物理定数は10個と少ない.しかし,これで充分ではないか.大切なのは,物理定数が直感的に,少ないキーインで呼び出せること.古い機種なのだが,かけ算記号は省略できるし,フォントも太字で見やすい.満点をあげていいと思う.

最新の関数電卓が「多機能の罠」に陥ってしまったことを端的に物語る実例の一つ.


さて,ここで各入力方式のベンチマークをやってみよう.例題は「波長1.315μmのレーザーフォトン一つ当たりのエネルギーを[eV]単位で答えよ」とする.我々レーザー屋が良くやる計算だ.公式は

(ここでeVは素電荷)

となる.ちなみに答は0.9428[eV].これを上記各機種で計算,ストローク数を競う.

fx-991s

[5][CONST][×][4][CONST][÷][1][.][3][1][5][EXP][+/-][6][÷][7][CONST][=]
18手.

EL-509F

[CONST][1][0][×][CONST][0][1][÷][1][.][3][1][5][EXP][+/-][6][÷][CONST][0][9][=]
21手.SHARP方式は,物理定数同士のかけ算でも[×]は省略できない

fx-991MS

[CONST][0][6][CONST][2][8][÷][1][.][3][1][5][EXP][+/-][6][÷][CONST][2][3][=]
20手.

f-788dx

[c-value][0][6][=][c-value][2][8][=][÷][1][.][3][1][5][EXP][+/-][6][÷][c-value][2][3][=][=]
23手.いちいち,物理定数を確定するために[=]を押す必要があるため手数が多い.
ちなみにメニュー方式でやると47手にもなる.

F-720i

[AHPHA][h][ALPHA][c][÷][1][.][3][1][5][EXP][+/-][6][÷][ALPHA][eV][=]
17手.現行機種に比べると圧勝である.

古い機種ほど入力に必要な手数が少なくなる,ということに注目して欲しい.fx-991sが意外に健闘したのには驚いた.


さて,最後に,物理定数機能の将来について考えよう.現行の物理定数機能が使いにくいのは電卓が多機能になったこともあるが,最大の原因は関数電卓のユーザーインターフェースの貧弱さにある.10キーと,あまたの関数がその地位を奪い合うファンクションキーの中に,物理定数を直接入力するキーを割り込ませるのは不可能に近い.

お若い方々はご存じないだろうが,関数電卓のユーザーインターフェースにはかつてはもっとバリエーションがあった.代表的なものは,側面のスライドキーと,手帳型関数電卓の蓋の裏側のソフトキーだ.どちらも,私の手持ち機種にはないので,以下のサイトを参考にしてもらいたい.

側面スライドキーの例

蓋裏側ソフトキーの例

なぜこれらのキーが無くなってしまったかというと,耐久性の問題もあるだろうが,コストダウンが大きな影響を与えていることは想像に難くない.しかし,もはや関数電卓が計算機能を競う時代はとっくに終わっている.これからの時代は,使いやすいユーザーインターフェースを競ってもらいたいものだ.

関数電卓に使えそうなユニークな入力デバイスとして「Graffiti入力」と「ジョグダイヤル」を挙げたい.Graffiti入力は,もはや絶滅寸前のPalm deviceに標準装備されていた,スタイラスでアルファベットを入力する方式だ.慣れると,ほとんど手書きと同じ速さで英文が入力できる.

かつて私が所有していた(今でも持っているが動かない)Sony PEG-T600C/RにAPCalcという電卓ソフトを入れて使っていた.アルファベットの入力が自由だから,プログラミングも苦にならなかったし,何より物理定数を含む計算が本当に楽だったのをおぼえている.私が使ってきた電卓の中でも特に印象深い一台.惜しむらくは,数字キーを指で押すときの感度が悪く,スタイラスを使わないとろくに使えなかったことだ.最近はi-Phoneのように洗練されたタッチパネルを持つハンディな機械があるので,こういうのをプログラム可能な関数電卓として売り出したら面白いのではないだろうか.というより,i-Phone用の関数電卓ソフトで面白いのがあったら買っちゃうよ.

一方,ジョグダイヤルはソニーが特許を持つ入力デバイスである.関数電卓に使うなら,サイドジョグタイプが良いだろう.ジョグダイヤルの,入力デバイスとして優れる点は,多くの項目からの選択が非常に早い,ということだ.物理定数を選んで選択するような用途にはぴったりだと思う.

今後の,ユーザーに優しい関数電卓の登場を期待したい.


物理定数クイズ:いくつ分かるかな?

物理学科の学生なら全部おぼえよう.本来,電卓でやるような計算なら,物理定数は3桁の精度で充分.機械に頼らず自分で入力すること.

正解は,マウスをドラッグして文字を反転させると現れる.さあ,やってみよう.

定数 一般的
な記号
大きさ[SI] 単位[SI] 備考
真空の光速度 c 2.99792458e8 [m/s] これだけは,9桁の精度でおぼえて欲しい.
プランク定数 h 6.63e-34 [Js] 次元は「hν=エネルギー」とおぼえる
ボルツマン定数 k 1.38e-23 [J/K] 次元は「kT=エネルギー」とおぼえる.
万有引力定数 G 6.67e-11 [Nm^2/kg^2]
真空の誘電率 ε0 8.85e-12 [F/m]  
真空の透磁率 μ0 1.26e-6 [H/m] 4π×10^(-7)の方がおぼえやすい?
アボガドロ数 NA 6.02e23 [1/mol]  
気体定数 R 8.31 [J/molK] NAk=Rだ.
素電荷 e0 1.60e-19 [C] 記号にはっきりした決まりはないようだ.
「理科年表」では「e」だが,これは一般的ではない
(ネイピア数eと紛らわしいので).
電子の質量 me 9.11e-31 [kg]